日記を書くときは、たいてい「原稿を執筆しているとき」である。
そう。かれこれずっと、もう何年にもわたって、時々「原稿を執筆している」。
書き上げられそうで、一進一退している原稿があって、
今週は、それと正面から向き合う時なのである。

執筆とすると、筆を執る(今でいうパソコンを立ち上げる)という重たいアクションが必要になってくるので、
すらすらっと書くぐらいのイメージで、原稿(というものも仰々しい、言葉でいい)を進める。

言葉も写真も、世界中にあふれまくっている。
時々、そんな世界中のすき間にすぽっとハマる言葉や写真がバズったりして、
持てはやされたりする。そこまででなくても、リアクションをもらうことで、
承認欲求を、満たしていく。見てくれる、読んでくれる人がいることは、
本当に、ありがたい。かくいうこの日記だって、そんなもんだろう。

ただ。昔の日記って、誰かに読まれる前提で書いてなかったよな。
私が浪人の頃、自分についてとか人生についてとか悩みまくった結果、
尋常じゃない量の言葉を、誰に伝えるでもなく書き連ねていた。
もちろん発表もしていないわけで、何のために?    そりゃあ自分のためだろうけれど、
誰に読まれるでもなく、きっと実家の迷宮の奥の奥のほうに、しまいこまれている。
いや、多分引越しの時に処分されているだろうな。だけど、
あの時に、無性に書いていた言葉って、実はなくなってなくて、
むしろ、今も凛々と生き続けているんだよなって、
今こうやって言葉を書いていると、思うんです。

結構ぶりに、名古屋の実家に帰った。
だから、浪人時代の、言葉を無性に書いていた頃のことを思い出したのかもしれない。
気づけば、もう名古屋にいた期間の方が短いので、
帰ると懐かしいというよりも、新しく感じる。

新しい街で、古い自分と再会する。
僕を捨てて、私になった。気でいるだけで、
あの頃の言葉の膨大な僕というものが、今の私にとって必要なものだ。

さて、言葉を書いていこう。